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ラプラスの妄想

空耳妄言35:安倍晋三という人物について最後に語っておこう -安倍官邸一味は悪事依存症の悪党集団だから早急に隔離治療こそ必要である

聞流しても良いが、誰かが囁いたほうがいいような話もある

私のブログ「ラプラスの妄想」では第二次安倍政権が発足してから直ぐに、安倍晋三という人物のまやかしさや安倍政権の危険性に何度も警鐘をならしてきた。主として祖父岸信介に由来する生育歴から来るパーソナリティの危うさ、知性、教養の無さから来る哲学、思想性とは無縁の右翼的言動と立憲民主主義を理解していない危惧などについてである。

その後約一年間の沈黙をしていたが、その間に安倍晋三首相はどんどん権力を一極化し増長し、やりたい放題であり、いちいちそれについて非難論評をする暇もないほどであった。

政権発足間もなく、政府の勝手な憲法解釈に基ずく集団自衛権、秘密保護法、辺野古基地移転など数々の強行採決をし立法府を踏みにじり、憲法改正も行政府が主導するなど立憲民主主義の基本である三権分立の無視の傍若無人ぶりである。それでも、まあここまでの悪政は、「安倍政権は衆愚政治にはならないぞ」という政治的信念も強さだと百歩譲れば倫理的には許せる範囲であったが、その後の夫妻、官邸挙げての国政の私物化は完全に我が国のモラル崩壊を招くことになった。森友では国有地10億円をただ同然で安倍友に引渡し、加計学園獣医学部認可では安倍友のために無理筋をごり押しして通し、莫大な税金供与をはかった。またそれらの疑惑追及には嘘を重ね、行政担当官庁の議事録を隠ぺい,改竄させ、一人の人間の命が失われるも、虚偽答弁を貫徹して安倍をかばった官僚に処罰ではなく論功行賞で出世させて応えた。逆に少しでも逆らう気配があれば、公安密偵を付けスキャンダルを探し恫喝したり、有無を言わせずの左遷で、忖度できる官僚ばかりで官邸を固めた。桜を見る会問題では、公費で自分の後援会員を接待し、明らかな公職選挙法違反行為をホテルの責任問題に転嫁しようとした。とにかく呼吸をするように嘘が言えるのである。最近では新型コロナ対策委員会の発言の証拠が残らないよう議事録を作らないように閣議決定してしまうありさまである。さらに自分を訴追できる検事総長の人事も恣意的に動かそうとしている。

そして致命的なのは新型コロナにおける政策の無能ぶりと出鱈目さである。出来もしないPCR検査を2万件準備したと口から出まかせで言い逃れをし、文科省と相談も無く突然全国の学校の休業宣言までしてしまう。国民の生活の安全、存続に関わる緊急支援策では自分の総理任期内のオリンピック開催を最優先させ動かず、あげくの果てにはアベノマスク、10万円の支援金、持続化給付金でも、得体のしれない官民の関わる幽霊会社を通して何十億も中抜きしたうえで、お仲間企業に丸投げして莫大な手数料で利益供与を図り、困窮した国民のために1円の無駄も無く税を使う観念は微塵もない。ちなみに400億以上使ったアベノマスクの使用率は4%に過ぎないし、当面の10万の支援金の給付率は6月半ばで30%に過ぎない下請け企業のスピード感である。

第二次補正予算では真水30兆円のうち10兆円を補正予算として私物化を図り政治私物化の反省のかけらもない。

おそらくこれら一連の悪事は表に出た一部の事案に過ぎないであろうから、安倍首相個人は、常日頃嘘を重ね、悪事を働くのを楽しんでいて、まるで病的に依存しているかのようにしか思えないのである。

最近のニュースでは東電の子会社が電話記録を改ざんして契約を偽装していたそうである。鯛にあらずとも頭が腐れば尾も腐るのは世の中の常である。私が子どもの頃は「嘘つきは泥棒の始まり」といわれたものであったが、今では「嘘付は、つき通せば出世の始まり」という、我が国は歴史上かつてないモラルハザードに陥っているのである。最も知性、教養、民度の高くないと思われる部類の政治家の一人麻生副総理が、日本のコロナ感染率、死亡率が世界の中で低い理由を外国人に問われた際、「わが国は君たちの国とは民度が違うからだよ」と答えたというからブラックジョークにもならない。安倍首相も安倍政権の政策の成果だというようなことを言っているらしいが、どこまでも反省して学習することの出来ない人物である。

悪性アベノウイルスに集団感染した安倍官邸クラスターは、仲間の団結力で強姦などという極悪な違法行為すらもみ消し、政治権力を完全に私物化し、税を動かせば、必ず何割かを掠め取らねばおけないように、あらゆる悪事に依存症のように振る舞う病的悪党集団である。

 

依存症は簡単には治らないが、精神医学的には依存症の治療は、作家で精神科医でもある帚木蓬生によれば、「人としての徳目を身につけること」であるそうだ。その徳目として「思やり」「寛容」「正直」「謙虚」を挙げている。これらの四徳目はギャンブルや悪事に依存している内にことごとく失われていくと言いう。

人を思いやる心はすり減って、大切なのは人よりお金になって行く(これは小泉、竹中コンビに端を発するが)。正直どころか、不正直の塊になり、朝起きて夜寝るまで嘘をつきまくり、夢の中でさえ嘘をつくという。謙虚さも無くなり、自分はさんざん人を苦しめているのに、悪びれたところは微塵も無く、傲慢そのものになって行く。寛容については、自分の非は棚に上げ逆恨みをし、他人がちょっとでも気にくわないことをすれば口を極めて罵り、人を許すということが出来ない。

どうでしょうか、見事に安倍晋三という人物に良く重なりませんか?

 

阿倍晋三という人物について云々(デンデン)することは、今後これ以上語る言葉も意味も見つからないので、今回を持って最後とすることにします。

空耳妄言34:史上最低の愚昧総理・安倍政府官邸一味にまんまとコケにされ続けていいのか?―山本太郎の声を聞け(緊急発言) ー聞き流してもいいが、誰かが囁いたほうがいいような話もあるー

7月21日の参議院選挙が目に前に迫ってきた。
今まで衆参総選挙や重要な地方選でも現安倍政権の民主主義の根本を無視した暴挙を非難し、このままでは日本の民主主義は危ないと声を大きく非難し警告してきた。
時には安倍首相故人の病跡学的アプローチからこの人物の人間性の未熟度、危険性を訴えてもきた。その危惧のほとんどが現実化し、なお悪化は留まることを知らない。官僚もマスコミもケツをまくったかのように国民に背を向け現政権に媚び、忖度するのが当たり前と化し、事実、取り巻きや、嘘をでっち上げシラをきりとおしたものが出世し利益を得ていく社会が、ここまで定常化してくると、もう物を言うのもバカらしくなって来て、沖縄の辺野古基地反対の県民投票の民意無視にしろ、最近の厚労省の年金不足の調査結果のもみ消しにしろ、怒りより先に無力感が先に立ち、このラプラスの妄想欄でも長い間沈黙を守ってしまう結果になってしまった。
しかし、このまま黙したままで参議院選挙が終わってしまったなら、なお一層の虚無感に襲われるに違いないと、遅まきながら一言書いて置かねばならないと思うようになった。
ここまで政治が低級貧困劣化してくると、日本の政治システムそのものが、大きく変わったわけではないのだから、結局安倍首相個人の資質に帰するとみるのが自然な考えではないか。

経済学者の金子勝が言っていたように、「民主主義のイロハも理解出来ていない、又理解しようにもその知性の無い愚か者が、権力を握ってしまうと、それほど危険なことは無い。」政権はその権力維持が目的化し、あらゆる手段を駆使して守ろうとする。それがどんなに卑劣で恥ずべきことでも、これまでが嘘で固めてきた人生だったから「恥じる」と言う良心、感性が無いから手におえないのである。彼は幼いころから出来が悪く、かつうそつきの劣等生で安倍一族の厄介者であったが、本人は一族の権力を背景に、嘘を糊塗、強弁することで乗り切ってきた半生が今日の権力維持構造を作り上げてきたのでは無いかと推測できる、
今では卒業した成蹊大学の恩師や同級生、同窓生の有志たちから、さらには後輩学生たちからさえ「成蹊大学で政治学をまともに勉強していたのなら、今のような政治的無知な発言は出ない筈であるし、こんな非民主的な政治ができるはずがない、「君は成蹊の恥だ」と成蹊大学ですら裏口入学、裏口卒業であったことを揶揄している。
安倍程度の知性と教養では、現代政治の基本理念である民主平等主義、基本的人権、平和主義というものが大脳のどの領域にも全くインプットされていないのであろうか。
こんな祖父:岸信介の幻影を追うだけのバカで軽くて担ぎやすい首相に、似たり寄ったりの麻生副総理とくれば官邸の官房や官僚の思うがままであろうことは疑いの余地も無い。そこに財界、学界、法曹界、マスコミ、出版言論界はては芸能界までの魑魅魍魎たちが跋扈して巨利を得ているのである。誰の目にも明らかなのは、パソナの竹○平○オリックスの宮○義○、ソフトバンクの孫○義、日立の大西宏○、読売の渡辺○雄、産経の鹿内一族、TBSの山口○之、政治評論家の桜○よしこ、田崎○郎、幻冬舎の見○徹、作家の百田○樹、プロジューサーの秋○康であろうが、それらはまさに氷山の一角にすぎない。
辺野古埋め立てに2兆円、オリンピックに2兆円、米国製防衛設備費10兆円、福島原発廃棄には5,60兆円と言う巨額な税金が使われる。たった1パーセントの利権をかすめ取るだけでも数百、数千億と言う税金が安倍友たちの闇から闇の手に消えて行くのである。
「みんな食い物にされているんだよ、俺達の国がどんどん壊されているんだよ」と叫ぶ令和新選組の山本太郎の声は正義である。それが彼の思想主義信条から来るものでなく、「みんな生まれてきた限りは堂々と生きていていいんだよ、堂々と幸せになる権利を主張していいんだよ、楽に普通に暮らせることが当たり前なんだよ。それが出来ないのは自分のせいだと騙されて思い込まされているだけなんだ。政治が悪いからだと気がつけよ、そして怒れよ」と社会の一員としての人間としての基本的権利の根源的な叫びである。
それが「人が当り前の人間であることへの闘争宣言である」が故、格差で追い込まれた多くの人々の魂を揺さぶるとてつもない破壊力を内包しているのだ。これに火がつけば、かつての都議選の小池百合子が生んだパワーの比ではないことは明らかだ。政治の流れを一気に変えうる力を持っている。
それが一番分かっていて恐れているのは政府官邸であろうから、この火が燃え上がらないように必死である。権力に組みしたマスコミも総動員で無視し放送させないようにし自公政権官邸に忖度しているのである。すべてのテレビ局は、個人寄付が1か月そこらで3億円を超えたという山本太郎の令和新選組の巷での盛り上がりを一切とりあげないことで自公体制維持に協力しているのである。
マスコミは国民に今起きている事実を知らせてこそのジャーナリズムであるから、もはや日本にはジャーナりズムは存在しなくなったと脳科学者茂木健一郎もツイートで警告している。最近のニューヨークタイムズは報道の自由を失った日本は独裁政権かと危惧した記事を書いた。

安倍官邸とその仲間たちを政権の坐から引きずりおろし、断罪しなければ、日本の民主主義は永遠に育たないと思う。これまでの不正の数々を今度こそ追求し裁判に付し罪を償わせなければならないと思う。

空耳妄言33.イチローの引退会見

空耳のように聞き流して良いが、誰かが囁いたほうが良いような話もある

しばらくブログの更新をさぼっていたら、あいつも地獄に行ったらしいという噂が立ったので、未だ‘天国の門‘の手前にいることの存在証明のためにも、たまにはブログを書くことにした。

この間に言いたいことは山ほどあって、書かないことはそれはそれでストレスでもあったが、大半はもう忘れたので直近の印象深いことから始めようと思う。

野球のイチロー選手が引退した。
引退会見を深夜まで全部見た。
実に見事な1時間半であった。

特に印象に残ったのは、‘自身の一番誇れることは何か?‘、と聞かれた時であった。
「数々の記録は作って来たが、そんな記録なんてものは、いつか誰かに塗り替えられるものだから自分にとってはどうでもいいことだ。もし自分に誇れるとしたら、去年の春、登録メンバーから外された時から今日の日まで、それまでの現役時代と同じようにトレーニングを続けて来られたことだ」と述べたことだ。
逆境にあっても自分を律し、前を向き続けられるレジリエンスの強さに感動したのだ。

そして最近、彼が3度目の国民栄誉賞を辞退した時、彼の品性、品格の高さを見た。
それを報じた同じニュースで、同じくスーパースターで国民栄誉賞に輝いたミスターN氏が神宮球場の貴賓席で手を振っている姿を放映していたが、なんだか人間の差を見るようで寂しい気持ちになった。

人にとって大事なのは、何をするか(to do )ではなく、どうあるか(to be)であること、つまり品位、品性であることを僕に確信させてくれたのは、昨年のノーベル賞作家カズオイシグロだが、
それにしても、尽きるところ国家権力を私物化して、日本をかつてない程‘美しくない国‘にした政治家Aの品性とはいかほどのものであろうか。

イチローはこうも言った。‘皆さんは僕のことを感情の無い人間だと思っているかもしれないが、僕だって悲しい時は泣くが人前では決して泣かないだけだ。嬉しい時は嬉しいと感動もする‘と。

会見中に相手を見定めるように見開いた目が、時にうるんでいるかのように見えたのは僕の錯覚であったに違いあるまい。

工事のための工事「下高井戸調節池」建設―住宅地にダムを作る暴挙

建設現場

建設現場

こんな工事が行われる

こんな工事が行われる

神田川流域の洪水防止事業の一環として杉並区下高井戸にある杉並区運動公園(旧東京電力運動公園)の地下に調整貯水池を作る話が、いつの間にか杉並区と東京都の間で合意され、最近2回の住民説明会を経て着工されることになった。

工事は調節池を作る本体工事と、工事現場に資材を搬入する搬入路施設設置工事に大きく2期に分けられるがおよそ7年に及ぶ大工事である。
最近になって2時間限定の説明会が2回開催され、それで住民アセスメントは打ち切りで、工事開始と言う段取りである。
その説明会に参加したので、この工事の問題点をいくつか指摘し、行政が市民に対する姿勢の根本的な問題点を述べたいと思う。

設立目的の根拠が曖昧でも平気で工事を立案する。

神田川の調節池としては、すぐ下流に最近完成した環状7号線地下調節池がある。それは143万m3で下高井戸調整池3万m3の50倍近い巨大なものである。都の説明では調整池と言うのは、設置場所の下流の河川の水量を減じることはあってもそれより上流の水量には調整池の効果は及ばないとし、それを「素麺流し」の例えで説明した。下流でいくら素麺をとっても上流の素麺の量には影響しないだろうと。
それが今回の建設理由である。
一方上流の永福町の神田川流域に住む住民は日頃の水量観察から、豪雨時の水量の増量は確実に減っているから、今の段階で、自然環境破壊や住民の生活環境に大きな犠牲を伴いながらもする必要はないのではないか、と主張した。都側は環7調整池完成後の上流水量変化の観測はしていないのであるから、少なくともある程度の期間観察し上流に変化が起きていないエビデンスを立ててからで良いのではないかと言うのである。
確かに、川の水量を研究する河川工学では、川の水量は「カオスであり非線型複雑系である」としているから、都の「素麺流し理論」で説明出来る程単純ではなく予測困難であるようだ。だとすれば、実際の水量変化の観測データの積み重ねやモデル実験によって推測するしかない筈である。
豪雨時の川の水量は、増量の速さも持続時間も様々であるから事実上予測困難であるから、洪水防止のための取水のタイミングは臨機応変に計るしかないと思われるのに、調整池への取り込み口[越流提]の高さが固定されているのもおかしな話である。
水量の増え具合から見て洪水のおそれは無くとも、越流提を超える水量の時は調整池に自然に流れ込む構造だから、その後水量が急激に増し洪水の危険が迫り、いざ調整池が必要になった時には既に池は満杯になっているという事態が十分起こりうるのである。取水のタイミングはコントロール出来なければ意味が無いのである。
そのような指摘に対して都側の返答は、「我々が最適のシミュレーションをして決めたのだから間違いない、変えるつもりはない」とニベもないものであった。
つまり現時点で下高井戸調整池を作る意義は、科学的には示されなかったのである。
確かに僅かなベネフィットはあるかもしれないが、それにしては、それに伴う犠牲が大きすぎるというのが周辺住民大半の意見であった。

決めたら住民の意見は無視して何が何でも決行する

設置の意味に疑問符が付きながら、さらには工事に伴う周辺住民の生活環境被害に対する配慮が全く省みられていないことからも反対の意見が出た。
工事現場は旧東電運動場、都立中央ろう学校周辺、神田川沿いには樹齢50年を超える桜の巨木が立ち並び、春には見事な桜並木の景観となる、緑豊かな閑静な住宅地である。
そこに丸でダム建設のような工事をしようというのだから、発想自体がムチャクチャなのであるが、実際の騒音・振動・粉塵等の近隣被害は想像を超えるものがあると思われる。近隣住居では5年以上の間、窓も開けられず、洗濯物も外には干せず、振動と騒音に曝され続ける毎日を過ごすことになるのであり、そのような生活環境を強いられれば、うつ病、不安障害、パニック、ノイローゼなどストレス性障害の精神被害は必発であろうから、「防音、防塵、防振対策はどのように考えているか」の問いには、高さ3mの仮囲いは作るが、それ以上のことは考えていないと言う無神経ぶりなのである。
損害補償は家屋の損害がせいぜいで、心的苦痛、精神的被害については全く歯牙にもかけない態度であったが、精神障害の診断がされ、それで入院になるもの、また自殺者が出ればその都度因果関係を調べると、誠に横柄なのである。

公共事業なのだから、周辺住民は我慢しろ、とにかく決めたら何が何でもやる、というのが役人の姿勢なのだろう。

工事に伴う自然環境破壊、住民生活環境被害は極力無視する

公共事業では自然環境破壊や住民の犠牲に伴う反対はいつものことなのだろから、担当者は全く平気なのである。また窓口になる担当者は随時異動させストレスを分散させるものだから、我がことのように親身になる必要も無く、平気で他人事のように鉄面皮でいられるのであろう。
とにかく、自然破壊、住民のこうむる不利益、被害は無視する、これが彼等の基本的姿勢である

これらの都のやり口は、国の公共事業や森友問題などで見えたやり口に共通する姿勢である。
裏でどんな政治的な取引が行われ不自然な事案でも、証拠が表に出さえしなければもっともらしい理由をつけて強引にことを運ぶ。始めたら、どんな不都合、犠牲が問題になって来ても、一切あとには引かず強引に断行する。

役人にとってそれが、彼等の保身、生きがいである出世に繋がる成績になるのであろう。
役人とは某前国税庁長官に代表されるように、齧歯類が上目使いしたような立ち居振る舞いで上司に仕え、保身と出世の前には社会正義は二の次になるような行動様式が常態化しているのだろう。
従って3月27日の前国税庁長官の証人喚問に万が一にも期待するのは、誠におろかなのである。

空耳妄言32:安倍首相の二つの大罪

空耳のように聞流して良いが、誰かが囁いたほうが良いような話もある

①

*日米外交で嵌った落とし穴―寝耳に水の米朝会談合意
平昌オリンピックで南北朝鮮が融和ムードになった時、韓国と米国は実はつるんでいるんではないかと、ここで懸念を言ったが、まさにその様になってきた。韓国の特使が北朝鮮に行って金正恩の約束を取り付け、その足でトランプのもとに行き、トランプは二つ返事で金正恩との会談に同意した。
この間に、トランプの盟友を自認する安倍首相の日本政府は、事前に相談を受けたのか?
どうも事後報告はあったが、事前は蚊帳の外であったようだ。
安倍首相の言う日米の強固な信頼関係とはこんな程度のものだったのである。

こんな米国、トランプを相手に、すべて言いなりに安保法制を変え、自衛隊を変え、巨額の武器を買い続けて来たお人よしポチ外交のつけは誰が払うと言うのか?
未だ、いざとなったら日本のために米国が身を切って守ってくれると信じる者がいるというのだろうか。

②

*森友決裁公文書改ざん問題解明には内閣総辞職が先決である。
森友決裁文書改ざんを財務省が認めた後の安倍首相の記者会見第一声は「なぜこのような問題が起こったのか?」であった。その時思わず「起こしたのはオマエだろうが」と腹の中でつぶやいたのは小生だけであったろうか。
森友決裁文書改ざん問題は財務省が単独で行った不祥事でないことは誰もが感じていることである。佐川元財務局長が指示し、誰が改ざんしたかどうかはどうでも良いことで、問題の本質は政権の都合に合わせて民主主義の基本である公文書が書き換えられた事実にある。これは政権が立憲民主主義、議院内閣制を否定したことであり、国民の基本的な主権、立法権を踏みにじったことである。こんな独裁、私物化内閣は総辞職させるのが、この問題解決すべての始まりであり、もとより前回総選挙で葬り去るべきであったのだ。

細かい事実関係を云々するより、森友問題で誰が得をし、誰が損をしたかを明らかにする、それに尽きる。

財務省からは、あの卑しい目つきの佐川前国税庁長官のような売国官僚ではなく文科省の前川前事務次官のような国を憂うサムライ官僚は出てこないのだろうか。
それにしても権力におぼれた安倍夫妻の暴挙、愚挙は、もっと暴かれていいし、それらは法によってしっかり裁かれるべきだと思う。

そして今なお、内閣総辞職による国政、外交の停滞を危惧する安倍内閣擁護論もあるが、本来存在してはいけない内閣が内政、外交を継続して行く方がもっと大きな禍根を残すと考えるべきであろう。

空耳妄言31:平昌オリンピック、婚約延期騒動について

空耳のように聞き流してよいが、誰かが呟いたほうがいいような話もある

①

*平昌オリンピックで思ったこと
韓国の平昌オリンピックは佳境を過ぎたようだが、日本勢は大活躍でいくつもの感動物語が生まれた。今回は、選手がひと一倍、真面目に求道的と言えるほどに努力したことに対して結果が付いて来たという感じが強く、またメダリスト達が周囲への心配りを忘れず、国民の共感と感動を深くしたのも特徴的であったように思う。
スピードスケートの小平奈緒選手は、大学で科学的ではあるが実験的なトレーニングを実践した学術的な成果でもあったし、所属が松本市の個人病院で、一開業医が見返り無しでスポンサーになって練習や遠征費用などを支え続けてきたことや、長年のライバルで、3連覇をかけ500メートル一本で臨んだ韓国のイ・サンファ選手が銀メダルに終わったことに対して示した気遣いや二人の態度の爽やかさなど、いい話がいっぱいあった。

一方で、今回ほどオリンピックが政治の舞台になったのも珍しい。
オリンピックがナチスなどに政治利用された歴史を反省し、政治からの中立性を強調するようになってきたが、オリンピック憲章には開催目的の一つに「平和に資するため」とあるから、平和へのきっかけになることを禁じているわけではない。だからこそサマランチ会長は急な北朝鮮の参加に積極的であった。
そして、平昌オリンピックをキッカケに韓国と北朝鮮の融和が急激に深まった。
昨今追い詰められた北朝鮮が日米韓の協調に楔を打って、米国の武力攻撃と制裁強化を回避するための時間稼ぎをしているだけだと、日米は韓国文大統領の態度にイライラを募らせている。もし北朝鮮が話し合いに応じ核開発を中止すると言ったところで、今までそうであったように、裏で核開発を進め、又騙されるに決まっているというわけだ。

確かにその見方の方が説得力があり正しいと思う。

しかし、日本が先頭を切って北朝鮮にさらに圧力を強め、アメリカが核態勢の見直し(NPR)で実践向けの小型核[戦術核]の開発配備を進めることを全面的に支持していくことが、本当に真の日本の国益になるか考えものだと思う。
なぜなら日本の国益の最優先は戦争回避のはずである。アメリカが軍事オプションをとれば日本国民の犠牲は数十万単位では済まないだろうというのが、世界の共通認識であるからだ。
韓国の北朝鮮融和策は甘いというかもしれないが、韓国と北朝鮮は同一民族であるから、戦争をしたくない気持ちは日本国民以上であろうことは、韓国と日本の立場を入れ替えてみれば想像もつく。
地政学的なバランスと同一民族内の争いは元々地平の違う話であるから、日米の都合を韓国に押し付けても無理があるのだ。裏切られても、裏切られても対話求めるうちに北朝鮮国民が気づき、動き出すのを待つというのもガンジーやマンデラの非暴力平和主義にも通じて可能性が全く無い話ではないのではないか。
歴史は暴力をもってして永続した平和・安定をもたらした例が無いことを教えている。

安倍政府の言う制裁強化、NPR支持、防衛軍備強化は、日本国民の命と平和な生活を守るためと大義もあり勇ましいので、支持も得やすいかもしれないがが、現状では戦争突入に最も近い道であり、そうなれば多くの国民が犠牲になるのである。
今私達は、殺されるのは決して他人ではなく、自分か自分の家族であるかもしれないと想像力を働かせてこの問題を考えるべきではないかと思う。

実は、日米が圧力を掛け続けるうちに、韓国が間を取り持って、突然、米国が北朝鮮と核装備容認・不使用で合意するというシナリオがないとも限らない。あるいは米国と韓国が出来レースをしていて日本が蚊帳の外に置かれているオプションも考えるべきではないかとも思う。それに中国が絡んでいる可能性も否定できない。かつて、ニクソン・キッシンジャーの頭越し米中和平もあった。
日本こそ、北朝鮮と米国の間に入って話し合い解決のリーダーシップをとるべき立場ではないか、それが一番我が国の国益になると思うが、安倍首相の頭にはそんなシナリオは全く描けないようである。

*皇族の結婚問題-眞子さま婚約延期騒動について
秋篠宮の長女眞子さまと小室圭さんの婚約が延期になった。週刊誌や裏チャンネルでは小室家の個人攻撃が凄まじいが、どこか違うような気がする。
皇室関係の意見は匿名性が担保されれば好き勝手に言いたい放題言うが、名前を出して意見を言う者は少なく、どこか卑怯さがぬぐいきれないと思う。

思うに皇族の結婚問題は、要はあくまで憲法が保証する個人の権利を重視する立場をとるか、皇族としての公人としての役割を重く見るかで違ってくるが、その片方に偏するからおかしくなるのである。
日本国憲法では、結婚はあくまで個人間の問題としているから、基本的には両親・家が、ましてや他人・社会が口をはさむ問題ではないが、天皇は日本国家、国民の象徴であるから、皇室・皇族はその一部を成し天皇を支える義務がある。天皇の象徴としての形に何を望むかは国民が決めることであるが、象徴に人としての高潔性、風格、品性、道徳性を求めるなら、皇族はそれに応えねばならないだろう。
そのために少なからぬ税が使われるのだから、秋篠宮が言うように、個人の自由意思を最優先してあくまで結婚を認めると言うのなら、一家で皇族を離れるしかないだろう。
さもなくば、長男悠仁親王が好きになった女性なら、それがどこの誰でも必然的に皇后になってしまうことになる。
今回の問題は、皇族の結婚相手が一般民間人なら、その出自の良し悪しの判断を、誰が何をもって正当に下せるかということである。例えば秋篠宮妃の00家、皇后の00家なら適正かと、最後は初めて民間人と結婚した天皇の問題に帰するのである。
天皇制の民主化と、象徴としての役割の両立は原理的に困難で難しいと思うからこそ、天皇制の維持には、天皇・皇族の象徴としての責任の自覚と努力、行政の支えが重要になると思うのである。
今回の婚約延期騒動の原因は、秋篠宮の皇族としての自覚の無さと、宮内庁の無責任さに尽きるのではないかと思うが、どうだろうか。
そのために(必要な時に必要な配慮がなされなかったために)、小室家は問題があるにしろ、必要以上に社会から誹謗中傷され迫害される犠牲者となってしまったように、小生には思えてしまうのである。

空耳妄言30:平成の終わりに逝った人たち

空耳のように聞流して良いが、誰かが囁いたほうが良いような話もある
①
*西部邁
あの独特な語り口の保守の論客として一目置かれていた西部邁が1月21日早朝、多摩川に入水自殺した。
60年安保闘争では東大全学連のリーダーであったが、翌年には決別して大学院に進み、その後、社会経済学の東大教授になったが、教員人事で教授会と対立して辞任し、その後はマスコミで活躍し、「朝まで生テレビ」で保守論客としての地位を固めた。
彼の独特な論法、言い回しからは、「君たちは社会とか人間の本質というものがわかっていないんだよ」という声がいつも聞こえていたような気がする。おそらく彼が転向した理由にも繋がるのだろうが、人間の社会的行動は合理的な面と不合理な面の二重性が本質であり、社会も『共同の企て』と「個的な企て」の二重構成であり、いわばユングの言うような相補性で成り立っており、その均衡をとって行くのが慣習や伝統であるとする考えが、彼の保守性の本質ではないかと小生は考える。
保守とはいえ、彼は反権力的で、ある意味でアナーキーな一面もあり、親米、利己的な保守知識層とは一線を隔していた。(おそらく竹中平蔵の類が大嫌いであったろうと思う)
彼は「人間が生きることの意味」を終生問い続け、その視点から社会、経済を論じていた様な気がするが、その生きることの最終章が「自栽」としての自殺ではなかったかと思う。

人は産まれる時は、100パーセント受動的であり、その後の人生もすべてを自分の意思で差配できるわけではない。せめて死ぬ時くらいは、誰の影響も受けずに自分の意思で死んで行きたいと思うのが、小生の人生観であるから、西部が自らの死を自ら裁くと言って死んで行った気持ちがよく理解できる。
救急隊が救命処置をしたらしいが、それはいらぬお節介というもので、彼が死を成就出来て本当に良かったと思っている。(合掌)
小生は、保守の中では例外的に西部は嫌いではなかったが、これでまた好感を強くしたのである。

②
*野中広務
自民党の元幹事長である野中広務が1月26日、92歳で大往生したが、今の政治状況ではこころ安らかにとはいかなかったであろう。
野中広務と言うと、自民党の重鎮であり国会議員生活も長かったと思っていたが、初当選は57歳と遅咲きで、町会議員、府会議員と地方議員時代が長く、所謂たたき上げの代議士である。自民党にありながら、徹底した反戦、憲法護持派であり、また権力の中枢にあっても弱者目線を忘れることはなかったが、その原点は自らの戦争体験にあると、しばしば語っている。
評論家の加藤周一や作家の野坂昭如や五木寛之の反戦思想もそうであるが、観念ではなく自らの血と汗と涙で覚えた体験は戦争観や国家観を大きく変え決定づけるものである。
我が国から戦争体験者が間もなく居なくなるが、彼等が歴史体験から教える教訓はわれわれ一般国民には明日の我が身の事でもあり、今日も将来も決して忘れてはならぬことであると思う。

③
*野村沙知代
野村克也元プロ野球選手・監督の沙知代夫人が1月10日に急逝した。
歯に衣着せぬ物言いで、何かと物議を醸す毒舌タレントでもあったが、オシドリ夫婦として知られていた。正直言って、趣味の悪い服装といい、余り知的とは言い難い生活スタイルから好きではなかったが、葬儀後の監督のコメントを聞いて、一種の共依存のようなこんな夫婦も捨てたものではないな、と思った。
「大事なことは女房が全部決めてくれた。ピンチになれば「何とかなるよ」と、いつも励ましてくれた。俺は女房の言う通りにやればすべて上手くいった。だからこれからどうすればよいか途方に暮れるばかりだよ」と、頬を伝わる涙を拭おうともせずに語った姿は印象的であった。
野村監督は、自らを月見草に、長嶋茂雄監督を向日葵に例えて対比していた。
その長嶋監督は誰も家族のいない大豪邸で一人脳梗塞で倒れ、運転手に助け出されたが、今も一緒に住む家族はいないという。
そう考えれば、野村夫妻は、本人の評価や世間評はともあれ、幸せであったに違いあるまいと思うのである。

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*「白いバラ」
銀座で唯一の大衆キャバレー「白いバラ」が、86年間の営業を終え1月10日に店じまいをした。
これも平成の終わりを告げる訃報の一つと言えるだろう。
この寂しさは、通った人にしか分からないであろうと思うし、ましてや女房、子供には想像すらできない寂寥感である。
よく、本当に大事なものは、失ってから分かると言うが、もっと通っておけばよかったと今更のように悔やんでいるのは決して小生ばかりではない筈である。
⑥

年頭雑感

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毎年1月15,16日は世田谷のボロ市が立つ。昔の楽市楽座の名残とも言うが、現在は、骨董市というわけでもなく、フリーマーケットに毛が生えたようなガラクタや近在の商店がバーゲン品を屋台に並べたり、食べ物の縁日が並ぶ程度のものである。それでも最も寒い時期にもかかわらず老若男女の多くの人で賑わうのである。小生は暇を持て余し思い立って行ってみた。上町にほど近い所に住んで30年以上になるが、3度目のことであった。
   
狙いは「たくあん」ただ一つ。まだ家庭を持ってすぐのことであったから、40年程前になるが、当時住んでいた早稲田から遠征して、初めてのぼろ市でタクアンを買い、その味に病み付きになり、しばらくの間、その店から毎年取り寄せをしていたが、その後なんとなく縁切れになっていたのを思い出し、そのタクアンの味を探しに行ったのである。
漬物を扱う露店は容易に見つかり、以前と同じ店ではなかったが、懐かしい田舎たくあんの味であり満足して帰ったのである。

ぼろ市は庶民の一年の始まりを意識させる年頭行事なのであろう。
それもあってか、帰りの世田谷線の中で、今年はどんな年になるのだろうかとふと考えてみたりした。

昨年の暮れの話題はもっぱら、大相撲の日馬富士暴行事件、貴乃花と相撲協会確執問題ばかりであった。そして正月を明けても、変わらず大相撲と芸能人の不倫の話題ばかりである。
いまこの国は、朝から晩まで相撲や不倫にかまけていていいような状況なのだろうか。
本当は裏ではもっと大事なことが山積みなのではないのか、マスコミの目くらまし、誤誘導に乗ってはいけない。
われわれ国民が真剣に考えるべきことは国内外共に山ほどあるはずである。
ちょっと考えても問題があり過ぎて、上手く整理出来ない程である。

国際情勢からみてみると、
トランプの言うアメリカファーストとは、アメリカ国民が、もう他国ことに構っている余裕はないと自ら認めたことであり、アメリカの衰退を自認し始めたという証さでしかないのではないか。
トランプはアメリカファーストどころか、自己陣営ファースト、ミーファーストの視野の狭い男で、思い付きの出鱈目さが目に余っても大統領職に留まっていられるというのはアメリカ国民の知的劣化を示しているとも思えるのだ。
北朝鮮外交では金正恩に完全に手玉に取られているとしか言いようがない。核弾頭搭載のICBMによる米大陸攻撃が可能になるまでに最後に残されたこの今の時期がアメリカ本土防衛、北朝鮮殲滅の最後のチャンスと言われ、いよいよ北朝鮮攻撃が現実味を帯びてきた今、金正恩は韓国と融和作戦に出て米日との間を割こうとしている。平昌オリンピックに参加すれば、その間は攻撃は避けられ、その後の融和ムードで米朝の話し合い期待で時間稼ぎができる。金正恩は核ミサイルを放棄するつもりは微塵もないだろうから、もとより話し合いで解決できるとは思っておらず、ただ時間稼ぎをしている内に核弾頭大気圏再突入を可能にする技術を完成させようとしているだけのことなのだろう。
この間に経済制裁は続行されても、その効果は中々現れてこない。中露の裏での援助はさておいても、金正恩は国民が飢え苦しんで泥を食べようが死のが痛くも痒くもない感性であるから、経済制裁は北朝鮮国民の大半が死に、彼の口に何も入らなくなる時まで効果は出ないことになる。
それまでに中国、ロシヤが面倒を見てしまうだろうから、結局西側の経済制裁は金正恩には無効になるだろう。そうこうするうちに、核攻撃可能な技術を完成させ核保有国として揺るぎない塁保を築いてしまうのではないか。
アメリカ政府は、中国に金正恩政権を追放し政権交代をさせる戦略を第一選択肢で進めるべきであると思う。(金正恩は、それを先読みして兄の金正男を暗殺したが、それでひるむことなく進めるべき)

世界の地政図は、アメリカの衰退、中国の台頭を基本に大きく変わって行こうとしている。世界経済圏も一帯一路が様変わりを強いて行くのではないか。
世界の趨勢である自由貿易と温暖化ガス排出規制の流れに背を向けて、目先の自国利益を優先させるアメリカは、もはや世界の指導的立場を自ら放棄したに等しいように見える。そして再び覇権を奪還することはないであろう。
例えるならば、クラス一力持ちで優等性であった生徒がグレテ不良少年になったようなものだ。かつては他の生徒の信頼を集めクラスを統率していたが、今後は彼がクラスの統率力を維持することは出来なくなるだろう。そして再びリーダーシップを取り戻すことも無いであろう。リーダーシップとは腕力だけではないことは小中学生でも知っていることだからだ。
が、しかし、そんな不良少年の腰ぎんちゃくを決め込んだのが日本政府、安倍首相であるから始末が悪いことこの上ないのである。

国内情勢は何と言っても安倍首相の動向にかかっている。
何故この程度の人物が一強として権力のトップに居座り続けるのか不思議であるし、この男が一体何を考えこの国をどうしようとしているのか、全くもって、よく見えないのである。
「凡庸」の一言に尽きると言われて来たこの男の権力が、巷間言われるように、株価の上昇と小選挙区制の妙だけで支えられているとも思えないから不気味でさえあるのだ。当然、この男を操る参謀というか影法師の存在が予想されるが、それとてここまで自在に操る人物の存在が、ただの官僚上りの秘書官というのも説得力に欠けるものではないか。
かつて安倍首相の病跡学的分析をここでも試みたことがあるが、要は自分では何も深く思索するということはない人物なのではないか。時代は流れ、地政学的構図は変わりつつあるというのに、半世紀前の岸自民保守が戦後の日本を保守右傾化しようとして挫折した再軍備、憲法改定を今完遂しようとしているだけではないのか。動機は、それが日本国民、日本国のために良いという信念ではなく、尊敬もし自分のコンプレックスの元でもある祖父、岸信介元首相の出来なかったことを自分が成し遂げるという自己愛的な陶酔感でもあり、安倍晋三個人のコンプレックスを補って余りある自尊心・優越感に根差すものではないだろうか。
世界より国家、国家より自分の陣営、さらには個人的な家族・仲間を優先させるところはトランプにも似てシンパシ―を感じるのかアメリカ(トランプ)に盲従してしまうところは日本にとってはハイリスクに過ぎるのである。

社会はAIによる産業革命の時代に入ったと言われる。IT関連のもの作りでは世界をリードしながら、新興アジア諸国に敗れつつある中、自動運転ソフトやIOTやEVでは遅れをとりつつあるのは、先を読めない政府官邸・内閣府の国家戦略の失敗だろう。日本には慶応の坂村健が広めた「コンピュータがいつでもどこでも活躍する社会という、今でいうIOTに当るユビキタス思想」が世界に先駆けてマスコミに乗ったが、それを国家戦略にし支援することはなかったし、AIの行く末を支配する量子コンピュータの基礎研究費は削減してきた。一方で政府はスーパーコンピュータ開発援助60億を闇のうちに決定し、その大半を安倍友企業ペジーコンピューティングが不正流用すれば、当の開発研究者斎藤某は逮捕し、共犯の例の準強姦免罪、安倍友ジャーナリスト山口某は相変わらず家賃200万のホテル暮らしを野放しにするとい森加計問題の二の舞を演じてみせるのである。(加計は獣医学部認可を貰い派手にパーティを開き美酒を飲み、籠池夫妻は未だに暖房の無い独房留置のままであるという)
この自らが関わる不祥事を反省し改めるところのない国家トップの倫理観の無さこそが、今後のモラルハザード、社会荒廃の元凶になるであろうと危惧されるのである。
佐川国税庁長官人事も同様であるし、安倍友である中西次期経団連会長が社長の日立の原発輸出融資の国家保証(東芝の原発失敗による損失を税金で補う保証のようなもの)も安倍マターである。

一般国民は、特に青少年は、昔から思いの外、お上の立ち居振る舞いを良く見ているものである。これからインモラルな社会的な事件・事案が多発して来るのではないだろうか。

北朝鮮のミサイル発射を利用し、不気味な警報を鳴らして国民の危機感を煽りながら、国会の審議無しで国防予算を激増させ、アメリカの言うがままに高額な兵器購入を決めていく。
地球儀俯瞰外交と言いながら不必要な外遊を繰り返し、後進国への千億単位の資金援助は、安倍首相がいい顔したいだけのお土産だが、一体総額幾らになったか報じられることはなく、その片方で福祉予算は減額の一方であり、また国家の基礎体力と言われる科学基礎研究の研究費は削減され日本の科学力は衰退の一途である。

米・北朝鮮戦争になれば日本国民数十万、数百万の犠牲は必須と言われながらも、アメリカの北朝鮮攻撃をどの国より積極的に支持する、国民の命は常に二の次の政治姿勢しかり、森加計、スパコン、リニア談合に垣間見えるやりたい放題の政治の私的利用しかりである。
それでも選挙では大勝してしまう選挙制度と国民民度。希望の党の顛末をはじめ、今また統一会派結成でもめる野党各党のだらしなさに改善の兆しは全く見えてこない。

考えると今年も明るい材料は内外どこを探しても見あたらないと暗澹たる気持ちになったのである。

何もしない―今年の正月休み

今年の正月程何もしないで過ごした正月はなかったかもしれない。
形成外科医であった頃は、正月も自宅に帰れず入院中の患者は必ずいたし、ともすれば正月に様態が悪くなることも少なくはなかった。消化器外科や脳外科に居た頃は、暮れ、正月の緊急手術も珍しいことではなかった。今思えば、正月でも一人で病院に居なくてはならない切ない心理状態が身体症状に出て医者や家族を呼び寄せていたのかもしれないと思えるが、とにかく病院から遠く離れることは出来なかった。
精神病院に勤務していた頃は、帰宅するところのない入院患者は沢山いたから病棟で正月行事をやらねばならず、必然的に新米精神科医は顔を出すことになる。
メンタルクリニックを開業してからは、患者に振り回されることはなくなったが、それでもスタッフの補充に気をもんだり、ホームページの改変原稿を書くなど、何かと暇はとれなかった。
今年は、昨年の11月に自分のクリニックは閉じたので、事務的な気苦労や雑務は一切なくなり、おそらく学生時代以来の『ネバならない仕事」の無い正月になった。

1

朝目が覚めるとベッド脇のカーテンを開け、朝の明るい日差しを浴び、しばらくまどろむ。暖かい布団の温もりを楽しんでから、おもむろに起き上がり台所に行き朝ごはんを食べる。
さすがに元旦はおせちであったが、大抵はシリアルかトースト半分にサラダと卵とフルーツ少々である。ミルクティが多いが、最近は遅まきながらコーヒーの味を覚えてコーヒーを飲むこともある。

ベッドに戻ってテレビのチャンネルを動かし面白そうな番組を探し気が向く番組があれば見るが、たいていは無いのでユーチューブかネットオークションで暇つぶしをすることになる。
例年ならまとめて読書をするが、今年はそれもせず、唯一読んだ本は友里征耶TOMOSATO Yuyaというグルメ評論家の本であった。

2

「シェフ板長を斬る悪口雑言集Ⅰ、Ⅱ」「グルメバトル」「絶品レストラン」「ガチミシュラン」「グルメの嘘」「堕落のグルメ」などである。
最初に読んだきっかけは、彼のブログで、クリスマスに鹿とイノシシのローストを取り寄せた「比良山荘」と、暮れに行った静岡の天ぷら屋「成生」がベスト店として取り上げられていたことであった。
その評論の辛辣さというか毒舌ぶりは腑に落ちるところも多く痛快でさえあった。

トモサト氏は、本業は機械商社のオーナー社長で、原則自腹で覆面取材するというグルメ評論は副業であるとしている。舌鋒はマスコミに良く露出する有名シェフ、板長・店に厳しいので、時に訴訟沙汰になるが、本業があるせいか、ひるむところが無い。
それに、知っている人物(シェフ、料理長)や店の悪口というのは読んで面白いものである。

彼の著作(と言っても10年位前のものになるが)の殆どを読んで理解した彼の主張は、ごく簡単に言えば3点であった。
一つは、「性格の悪い(客を客とも思わない自分本位の経営優先の)シェフ・料理長の店に美味いものはない。」外食は味もそうだがコストパフォーマンスも大事で、従って「地代の高い新開発の高層ビルに良い店は在りえない。」二つ目に、日本にはグルメジャーナリズムは存在しない(ミシュランを含む)。「すべての評論家、フードジャーナリスト、グルメ本出版社はすべて、シェフ・料理長や経営者と馴れあっており客観的な正当な批評はなされていない。」3つ目は、「にわか成金、文化人気取りの自称グルメセレブ、食通をバカにし忌み嫌っている」こと、である。(味音痴で、所作も醜いという)

そして彼の批評の特徴はワインの設えに重きがあることである。彼は日本ソムリエ協会の認定ソムリエでもあり、相当のワインラバーである。
彼は、グルメ批評というのは、批評家が自分と趣味趣向が合っているかが大事で、批評に客観性はないと言っている。つまり食事にワインなどアルコール類を重要視しない、あるいは下戸が酒好きの料理の好みと一緒であるはずがないといい、酒を飲まない一般人が自分の評価と違って当然であるとしながら、高級ワインを何本も抜く自分の取材スタイルのいわば自己弁護をしているようにも見える。

例えば、彼が忌み嫌う利益追求型、経営優先の多店舗展開型の代表でもある「ひらまつ」の評価は意外に低くはない。何故なら「ひらまつ」はワインの品ぞろえの豊富さと高級ワインの値付けの安さが彼の評価を甘くしているとしか小生には思えないのである。

彼はプロの批評家が一回きりの訪問で、あるいはランチしか食べないで批評することを批判し、自分では最低でも2回はディナーを食べているとしているが、それも一食10万に達するような超高級店でも臆せず自腹で通うが、誰にでも出来ることではないだろう。

またソムリエに気に入られる(舐められない)ためには、それなりの服装、装飾品を身につけ(金を使う金持ちが好きである)、ヴィジュアル的に優れた女子を同伴し(日本一有名な例のソムリエを始めソムリエは女好きが多いらしい)、高級ワインを抜く(ソムリエのプライドを満たしつつ儲けさせてくれる)ことであるという。

従って、トモサト氏の辛口批評は正鵠を得ていることが多いと思うが、食に対する立ち位置が一般人とは違い、彼が自薦するような、「一般人の、一般人による、一般人のためのグルメ批評」とはいかないようだ。

3

それにしても正月休み期間にもかかわらず、一冊の本を運んでくれたアマゾンならびにクロネコヤマトのみなさんに感謝しつつ、今年も平穏であることを願いつつこの原稿を終わることにします。

空耳妄言29:大相撲、高校無償化、ギャンブル依存症などについて

空耳のように聞流して良いが、誰かが囁いたほうが良いような話もある

今年も、そして平成も終わろうとしているが、一体何を記憶し反省すべき年であったか、、間もなく10大ニュースが発表されるだろうから、それらが出そろったところで、小生の感慨も述べたいと思うが、今は昨今の話題について思った事を忘れないうちに、老人の妄言として述べておこうと思う。
むろん空耳のように聞き流していただく類のものである。

2017_12_19_1
*大相撲大関最高位の提案
日馬富士の暴行問題が膠着している。
問題の根に、八百長問題が関連するガチンコ相撲の是非や横綱の品格を問うなど相撲観に関する問題とモンゴル力士台頭に関する問題に対して、相撲協会内部ならびに広く相撲ファンの間に意見の違いがあるためではないかと思われる。
先に小生は、相撲は純粋スポーツとしての競技性を追求するのではなく、プロレスのようにエンターテイメント、興業としてやればよいと言ったが、そうまで割り切れない日本人は多いのではないかと思うから、古来からの神事とする伝統文化性と格闘技としてのスポーツ性の融合を図る方法を提案してみたいと思う。
格闘競技としてのスポーツとしては最高位を大関とし、大関の中で抜群の力量と人格・品格に富み相撲道精神を体現した大関が出現した時にのみ不定期的に横綱を置くという考えである。
その選考に当たっては、抜群の強さは必要条件にして、神事としての日本文化の伝統性を託するに足る人格、品性、カリスマ性を持つ日本人力士であることを十分条件にするのである。
白鵬は、優勝回数抜群でも相撲に品格が無いし、第一日本人ではないから横綱には不適格となるし、鶴竜や稀勢の里は抜群の強さに欠けるから横綱の条件を満たさない。

江戸、明治の初期までは大相撲の最高位は大関で、別格の大関が現れた時のみ横綱にし、神事を執り行わせたという歴史的事実がある。従って数十年も横綱が空位であったこともめずらしくはなかったし、いても単独であることが多かった。現在のように基本的に複数横綱が常在するというのは比較的近年になってからのようであり、多分に相撲人気をとるための興業的視点からの処置であるように思われる。

また相撲協会そのものにも組織変革が必要であろう。執行部理事となる親方衆はいわば軍人上がりの制服組であり、基本的に頭脳より筋肉派である。文民系の私服組を入れ、神事、伝統文化としての役割を果たす組織としてのバランスをとる必要があろう。横綱審査、選任に当っては、第三者機関としてスポーツ、文化両面から見識に長けた人物から成る組織を作り、それに当るのが良い。(現在の横綱審議会の間口を広め、また権限も強化する)ただし、そこでは江戸時代のような贔屓筋の権力が(強い大名をタニマチとする大関が横綱になった例も少なくはないようだ)介入、忖度されないようにする必要がある。

外国人を横綱資格から除外すると国際問題になるという意見があるかもしれないが、大相撲にグローバル化が果たして必要であろうか?柔道や空手のようにオリンピック種目になることを目指すのならともかく、相撲が神事であった伝統を重んじ、日本独自の伝統文化の一環として持続して行くのであるならば国際化の必要はないであろうし、スポーツ競技としての相撲の部分は外国人参加を大関を最高位とする条件付で認めるので十分ではないかと思う。

横綱はいわば国民栄誉賞のようなもので、選考には必ずしも公平性は担保されないが、そこには大きな不満は生じないであろうと思う。それは横綱は大きな金銭的な利権は伴わない名誉職のようなものと位置付けるからだ。

それでは大関が横綱の代わりになるだけだという意見もあるかもしれないが、しかし大関の上位に横綱というポジションが存在すると言うだけで、大関は自ずと自重するであろうし、日本人力士はさらに精進しようとするのではないかと思う。大関となった外国人力士の振る舞いが問題になる可能性があるが、それはスポーツとしてのルールを厳しく遵守させることで対応できる。横綱は日本人力士にとってプライド掛けたモチベーションになるのではないだろうか。

最後に、大相撲の利権が大きすぎるのも問題であろと思われる。今ほど相撲が金のなる木でなければ、外国人が大挙して入門することもなかったであろうし、相撲協会の内部紛争も熾烈にはならないのではないかと思う。勝てば金になる、というモチベーションだけでは相撲に品位を求める方が無理というものだ。
金銭的な夢はあってもいいが、欲・利が何よりも先に立つものではないという程度に構造改革が必要であろうと思う。

2017_12_19_2
*高校教育の無償化という国家衰退の大愚策
もともと動機は、ただ安倍政権延命のために解散総選挙をせんがためにとってつけた選挙公約の政策であったが、自公が勝って現実に実行するとなれば、その問題性を見逃してはなるまい。

全ての種子に、同じように水と肥料を与え育てるのが義務教育であるとすれば、中学までの9年間でほぼ必要最小限の教育目票は達成されてる筈であり、さらに栄養を与え続けるのが適正かの判断はそこでなされるべきであろう。義務教育の先も教育を受けるかどうかは個人の学力、資質と家庭環境の経済力に寄ることになるので、その経済力によって差が出るところを解消しようという趣旨は極めて分かり易い、ポピュリズム的政策であるが、高校の授業料が無償化となっても、授業料を越えた経済的理由で進学できない子もいるであろうから、そこでは格差、差別はさらに顕著になってしまう。ならば一層のこと高校は義務教育化した方が公平になる。つまり高校授業料無償化は義務教育延長の問題として考える必要があるが、果たしてその必要があるかは、余り議論されていないようにみうけられる。

しかしここではその是非の問題の前に、一方で大学を始めとする先端的教育研究機関の予算が削減され日本の科学研究力の低下が深刻になっている現実を問題にしたい。日本発の国際論文数は減少の一途であり、このままでは将来の科学分野のノーベル賞はおぼつかないだろうと言われている。

小泉内閣以来財政難の名目のもと、大学における研究の基本的資金となる大学運営費交付金は年々縮小され今や減額は10%を越え、大学院は出ても研究職につけない研究者難民は増える一方である。また目的別に配分される競争的研究費(科研費)は、短期的に実用化が可能な分野に集中的に配分され、基礎科学研究分野の研究室は存続もままならない状態にあるという。
ノーベル賞受賞者を始め多くの指導的立場の科学者達は、基礎研究こそが我が国のような科学立国の国家の基礎体力であると警鐘をならし訴えるが、安倍政権は逆の方向性を示している。そこでも現政権の忖度政治がまかり通り、スパコンの開発に膨大な不正資金が流れ、そこに安倍友の例の性犯罪疑惑のジャーナリスト山口某が絡んで利を貪るという構図が見えるのである。
一方で、ノーベル生理医学賞受賞した大隅良典は私費を投じて財団を作り、国から研究費のつかないユニークな基礎研究を私的に助成しているあり様である。
高校無償化が一概に悪いというのではないが、この様に重要不可欠な分野に投資しないで、一方ですべての高校を無償化しするという行政の投資対効果がみえない無策ぶりを問題にしているのである。
平たく率直に言えば、バカに金を投じてもどぶに捨てるようなものだということだ。
大學無償化の話もあるが、大學も、誰もかれもが行けばよいというものでもあるまい。奨学金を借りて、アルバイトが第一優先のような生活をして、一般教養の基礎となる本さえろくに読まず、偏差値の低い大学を卒業して本人も社会も何か得るものがあるのだろうか。結果、ロクな研究も教育もしない名ばかりの大学教授が巷に溢れることになっている。

日本ではエリートを積極的に育てようとしないのが、政治の貧困につながっていると思う。
国民の権利は当然平等であるが、人の能力も意識も教養レベルも階層化は避けようがない。
その上部層のリベラルアーツが低いのが日本の社会の未熟さの根本ではないかと思う。
現在の目を覆うばかりの政治の貧困さ、政治家の資質の低さはひとえに我が国の教育の失敗の結果であろう。そうして本来指導的立場に立つべきではない人物が政治を仕切るから、ますます教育を劣化させていくのだ。科学研究費の削減と全ての高校の授業料無償化は、国家の将来を見ない愚索の典型であろう。
教育立国を目指すと与野党とも言うのなら、限りある予算を、メリハリをつけて可能性のあるところに重点投資すべきなのは当然ではないだろうか。

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*IR法案に反対しない精神医学会に問う
安倍政権にまつわるスキャンダルが,森、加計問題から今またスパコン不正補助金問題、リニア新幹線建設談合問題と続く中で、安倍政権の本質的な犯罪性、日本の在り方を揺るがすような悪の本質が隠されてきたように思う。日本憲法の根幹を変える安保法制に続く周辺事態法やRI法案(統合型リゾート法案)の成立、施行が現実のもとになってきている。
IR法案は、博打に依存しなくとも国土と国民の清廉さでインバウンドを増化できるという日本国民の自信と誇りを踏みにじるものではないのか。IR法案成立の際、その弊害、副作用としていつも論じられてきたのが、ギャンブル依存症の増化の懸念であった。結局ギャンブル依存症対策に十分に配慮し予算をつけるということで、なんとなく決着したように見える。
それはまるで予算さえつければギャンブル依存症は防げるし治せるとするのを前提とした理解であるが、では具体的に有効なギャンブル依存症対策と何なのか?もともとそんなものがあるのか?

そんな有効な対策が無いことは、当事者の精神科医が一番良く知っているはずである。

ギャンブル依存症を防ぐにはギャンブル根絶しかないのである。医療者として本当にギャンブル依存症の不幸から救いたいと思うなら、新たなギャンブルの場を作らせないように動くのが精神医学会の当然の役割だと思うのだが、そのような動きは全く伝わって来ない。
もっとも今までにも、治せもしない精神疾患を治せるかのような幻想を与え、実際は精神障害者を管理することで膨大な医療福祉予算を食い物にしてきた精神科医達の集まりが精神医学会であるから、彼等がIR法案を精神医療の危機と取るか,好機と取るかは、今までの動きを見れば明らかであろう。
こうして、又しても膨大な税金が無駄な精神医療に費やされていくのだ。

つまり一言で言うなら、本心ではまずいと思いながらも己が利益のため黙する精神医学会の品性の問題に尽きるのである。

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